「ここ30年で働き方を取り巻く環境は大きく変わりました」変遷期を乗り越えてきた各分野の女性リーダー4名がダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン(DEI)について語り合う(前編)
男女雇用機会均等法の施行は1986年。同年に社会人になった、いわば「均雇法1期生」の女性たちが現在定年を迎えつつあります。あとに続いた先輩方が道を切り開いてきたからこそ、いま私たちは働く環境を享受しているのですが、中でも「役員」のポジションまで進んだ女性たちはいったいどのような荒波にもまれてきたのでしょうか。
入社時に「出世しよう!」と思っていたのか? 当時まだ女性のいない社会でどのように自分の立場を作っていったのか? 各界を代表する女性役員4名にありのままの「これまで」を伺いました。
【お話いただいたのは】
味の素株式会社 執行役
ダイバーシティ・人財担当
栢原紫野さん
株式会社丸井グループ 執行役員
株式会社エムアンドシーシステム
取締役デジタル推進本部長
廣松あゆみさん
三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社
常務執行役員
南里彩子さん
三菱UFJ信託銀行 常務執行役員
リテール副部門長
田中麻里子さん
現在とは「まったく様子の違う社会」だった。4人の女性役員たちのスタートライン。
――本日はメーカー・金融・小売という異業界から女性の役員の方々にご参集いただきました。まずは、みなさんが役員になるまでのキャリアを簡単にお聞かせください。
栢原さん 私は新卒で味の素株式会社に入社しました。その時が女性の総合職採用の1年目で、入社後は、これもまた女性初となる営業職に従事しました。
その後、労働組合の専従やグループ会社への出向、人事部門を経て九州の工場などに転勤し、単身赴任も2回経験しました。女性の単身赴任は現在でもそう多くはないことかもしれませんが、夫の理解にも助けられたと思っています。
メインのキャリアとしては人事部門で、現在もまさに今回のテーマであるDEIの推進を主軸に仕事をしています。
田中さん 私が入社した時は、女性の総合職採用が始まって5年目くらいでしたね。
入社後は約20年間、社内のシステム開発に携わっていました。このまま技術系の道を歩んでいくものと思っていたのですが、その後、人事部に異動になり、その2年半後には兵庫・西宮支店の支店長を任されることになりました。
最終的には、全国6店舗の支店長を経験して、2023年の4月から役員として各支店をまとめる仕事をしています。
廣松さん 私は平成元年に入社。入社から10ヶ月間は営業店のカードセンターで接客していました。その後は本社のクレジットカード部門に配属されることになりました。
私の入社後、弊社のカード事業は、同年代の方ならお馴染みの「丸井の赤いカード」から現在のエポスカードになるまで4回リニューアルをしているのですが、そのすべてに携わり、フィンテック関連の事業の立ち上げを経験しました。
その間2回の育休をとり、2回目の育休明けからシステム部門に従事、会社がDEIへの取り組みを始めた頃に人事部に異動になり、4年間DEIの理解浸透、促進に携わりました。
その後は再びシステム部門に異動して、オフィスシステムやフィンテック事業の開発に携わり、現在に至っています。
南里さん 私は1992年に入社しましました。当時、同期は470人くらいいましたが、総合職の女性はたった8人。同期女性の少なさに愕然としたところからキャリアが始まり、そのまま三菱UFJ銀行で30年勤めました。
銀行でのキャリアのうち約20年が法人営業です。中堅企業から大企業までさまざま経験しました。そのほか、約10年は人事と広報に携わってきました。
現在は、三菱UFJモルガン・スタンレー証券にてコーポレートコミュニケーション全般を担当しています。
男性社会に飛び込みキャリアを重ねるうちに自分の考え方にも変化が
――当時はまだまだ男性が主体の社会ですよね。そういった状況の中で社会人になられたみなさんの、入社当時のキャリアプランや現在のお考えなどをお聞かせください。
南里さん 先ほどもお話ししましたが、私が入社した時の同期女性は私を含め8名。管理職の女性にいたってはゼロでした。内定式で男性の同期が「最低でも支店長をめざしたい!」と意気揚々と語っていて、「これは大変なところに来てしまったぞ」と思ったことを覚えています。
私自身は、最初から管理職や役員をめざそう、という明確な意志はなく、「まずは3年頑張ってみよう」という感じでした。自分が選んだ会社なのだから、とりあえず3年間は責任を果たそうと。そうしているうちに3年が経ち、次は5年をめざそう、次は10年と少しずつ目標を先に伸ばしていって現在に至ります。ちょうど10年勤めた頃から、悩みは尽きませんでしたが、いつまで勤務しようという考えはなくなってきたように思います。
廣松さん 弊社は、元々女性の社員が多く、私が入社した時代は女性社員の平均年齢は今よりもだいぶ若かったです。南里さんと同じく、私が入社した時は本社に管理職の女性はおらず、お店のマネージャーとして数名の女性がいる程度でした。
私自身は、入社する際「10年続ける」を目標にしました。その理由は、就職活動の際に大学のゼミの教授から言われた「どんな会社でも10年はいないとわからない。まずは10年頑張れ」という言葉が心に残っていたからです。
ただ10年と目標を定めていたものの、長く勤めてキャリアを積みたい、と考えていたわけではなかったんです。単純に「自分の食い扶持は自分で確保しよう」という考えから。だって、一生一人で生きていくかもしれないじゃないですか(笑)。
仮に結婚したとしても、パートナーが何らかの事情で仕事ができなくなることも考えられます。パートナーを一人養えるくらいの収入はめざしたいな、と思っていましたね。
なので、数年勤めて管理職の一歩手前くらいまできたときに、「自分のキャリアはもうこれで十分、ここに留まりたい」と思ったんです。でも、そんな甘い考えを会社は許してくれませんでしたが(笑)
上司からは「ここから上に行きたくない、というのは会社においてはありえない。現状維持は後退。そんな人間には評価はあげられない」と怒られ、そこからは考えを改めました。
田中さん 私も、初めから管理職や役員をめざして入社したわけではありませんでした。就職活動はバブル期で、比較的志望が通る状況でした。当時はシステムエンジニアという職業が脚光を浴びていましたが、自分には向いていないと思い一般企業に入ることにしました。
入社当時、総合職の同期の女性は7人しかいなくて、どこにいっても「女性なのに総合職なんだ」って言われるくらい珍しがられました。
そんな環境の中でも、良かったことは、システム部門で一緒に働く協力会社には女性がたくさんいらしたこと。女性の部長もいました。
協力会社の方々と一緒に、ひとつずつ目の前のプロジェクトをこなしていくうちに今のポジションになっていた、という感じですね。
栢原さん 私もみなさんと同じで、入社当初は「とりあえず3年」と思っていましたが、実は最初の1か月で早々に挫折しかけているんです(笑)。配属初日に熱を出してしまい、まだ有給もない中で欠勤。翌日出勤した際に上司から「根性なしでがっかりした」と言われました。それがショックで母親に「私ダメかもしれない」と相談したことを覚えています。
それでもなんとか3年続けたころに、やっと仕事のおもしろさがわかってきた。私が仕事を続けられたのは、お得意先の方に恵まれたこと。営業先を回っていく中で、お得意先の方々に励ましてもらったり、目標の数字が達成できたり、たくさんの貴重な経験をさせていただきました。
女性の自分が感じた違和感を取り除くことが、よりよい会社作りにつながる
――みなさん最初から管理職や役員をめざしていたわけではなく、目の前のことに精一杯取り組んでいくうちに現在のキャリアに至ったのですね。では、管理職や役員になることを受け入れるようになったターニングポイントはありましたか?
田中さん 34、5歳ごろ、あるプロジェクトでプロジェクトリーダーをしていたのですが、そこで大きな失敗をしました。その時にマネージャーにひどく怒られたのですが、それは失敗そのものに対する叱責ではなく、その後の対処のスピード感ややり方がよくない、というものでした。さらに上司は、協力会社のベテラン社員を私の指導係につけてくれて、仕事面だけではなく私の話し方から態度まで細かくご指導いただきました。
この経験がすごく私の成長の糧になっていて、仕事の本当の楽しさを知ることができた気がします。もしこの経験がなかったら、今でも漫然とただ働いていたかもしれません。
栢原さん その上司の対応は素敵ですね。叱責するだけではなく、その後のフォローを適切にしてくれる。
田中さん はい。私も今、当時の上司と同じ立場になってみてそう思います。男性の上司からすると、女性の部下を叱ることは、難しく感じる場合もあるかと思いますが、それでもきちんと叱ってくれましたし、その後のフォローとしてアドバイザーまでつけてくれました。
南里さん 私の場合は異動が転機でした。入社から法人営業担当でしたので3年に1度くらいのペースで異動があり、その間に出産も経験しました。営業が好きだったので、育休後も営業を続けたいと思い、実現したのですが、やはり現実的には両立はとても難しかったです。
そんな私に、上司は「働く時間の長さではなく、結果で示せばいい」と言ってくれていましたが、現実はそんなに簡単に済む話ではありません。自分だけが先に帰ることへの後ろめたさもありましたし、反対に私が帰ったあとの会議で大事なことが決まっていたり、会食に参加できなかったりすることへの疎外感もありました。
当時は、小さな子どもがいるかぎり、優先順位は家庭中心とならざるを得ないこともありましたので、このままではこの会社で勤め続けることは難しいのかな、と感じていたときに、女性活躍推進のプロジェクトメンバーに声がかかり、その後人事部に異動になったのです。それが大きな転機でした。
これまでの営業とは180度仕事内容が変わりましたが、自分の経験や悩んできたことがそのまま仕事になるという、やりがいや社会的意義が感じられる貴重な経験でした。自分が悩んできたことを解決しないままにしておくと、それは次の誰かの悩みになってしまうわけですから。
この部署では、たくさんアイデアや施策を出して、それを実行することができました。それを繰り返していくうちに、「人や会社を動かすことがおもしろいな」と思うようになりました。
栢原さん 理不尽だと感じることや納得できないことを解決したいという気持ちがモチベーションになる、というのは私もよくわかります。
私は入社して6年目で、労働組合専従職員になりました。労組の活動では「良心に従っていいんだ」「正しいと思うことをちゃんとやることが仕事なんだ」「そういう人にこそ人はついてくるんだ」ということを学びました。こうしたことに20代で気づけたことは、とてもよい経験だったと思います。
実は私自身、それまで心のどこかで「会社は理不尽なところ」という思い込みがあったんですよね。たとえば当時、なぜか女性だけ結婚すると結婚記念品がもらえるという制度があったり。会社の制度に違和感を持つことが多かったんです。
でも労働組合の活動として労働条件などを会社と交渉することで、「公平性」について身をもって学ぶことができました。ちなみに、その時一緒に活動していた労働組合の委員長が、今の弊社の社長です。
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