「人生の曲がり角」を過ぎてからの再出発は、むしろチャンス!?「15年間引きこもり」だった芥川賞作家が語る、「適度な脱力状態」のすすめ

2025.06.25 WORK

無駄な力を出し切り、「適度な脱力状態」にしておく。必要なのは「費やす手間隙」

専門知識やノウハウは、チャンスをものにする準備として必ずしも必須ではないですが、もちろんそうした実践的な能力があるに越したことはありません。

どんな分野の職業であろうと、そこで駆使する能力は、天性のものもあるでしょうが、後天的に獲得しなければならないものもあります。

 

だから、実践的な能力は手間と時間をじっくりかけてはじめて養われます。手間隙を惜しめばいつまでも身につかないのは当然のこととして、一度ついた能力も怠ればたちまち萎(しぼ)んでしまいます。

 

あなたの努力が報われて、やりたかった仕事にありつけたとしても、能力を磨く営みは半永久的に続けなければなりません。それが実践ということであり、現役であるということなのですから。

 

わたしは職業柄、言葉や論理というものを日々、使っているわけですが、言葉や論理といった数値化できない能力であっても、油断すればたちどころに衰えます。

 

小説を書けば書くほど、言葉は枯れて、硬直していく。だから書くこと、つまりアウトプットすることと並行して、本を読み続けることも欠かせません。

 

そうして新鮮な言葉や論理を常に自分の中に取り入れ、育む。育んだそれをしかるべき機会に駆使する。そしてまた取り入れる。その繰り返しです。言葉は決して自然に湧いてくるものではないのです。

 

あえて難解な本を読み込むことも、わたしの職業的能力を高め、維持するうえで大切なことのひとつです。わからない本を、わからないと思いながら読むのは、直接的な収穫にはつながりにくい。

 

でも、うんうん唸りながら理解しようと努力することで、いわば無駄な力を出し切ることができる。そうしないことには、小説を書くうえで、先にはいけないという実感があります。

 

どういう分野でのパフォーマンスであれ、本番に臨むときは余計な力が入っていないほうが、良い結果につながるものです。本番で力みを抑えるには、その前段階で目一杯、力んでおいて、適度な脱力状態にしておくのが理想的です。

 

わたしはいつも小説の書き出しで悩みます。ああしよう、こうしよう、あれこれ考えて、なにかを書いてはそれを破り捨てて、ということを延々(えんえん)とします。無駄な時間です。なにも生産していない。破り捨てた原稿はもちろんお金にならない。

 

でも、そこで力を消費したあとに、スムーズに書ける瞬間が来る。すなわち本番に臨めるわけです。

 

となると、逆説的な言い方になりますが、自分の目指すところが定まり、そこにたどりつくために費やした手間隙は、ひとつたりとも無駄にはならない。

 

努力が報われず、まだやりたいことを実現できていなかったとしても、あなたは密かに着々と向上しているのです。

 

 

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■著者 田中慎弥(たなか・しんや)
1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞し、作家デビュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞。12年、『共喰い』で芥川龍之介賞を受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞を受賞。『燃える家』『宰相A』『流れる島と海の怪物』『死神』など著書多数。

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