1/3は突然死、1/3入院中死去、残る1/3がどうにか退院だった。心筋梗塞に向き合い続けた医師が抗加齢医学を志す明確な理由「救える命には限りがある」
長崎に生まれ育ち、北海道で学び、再び長崎の地で不整脈治療をスタート、海外勤務と留学を経験するダイナミックな30代を経て、50代以降を「地域医療と予防医学」に捧げた満岡先生に、今日から見直せる健康習慣のヒント、そして医師を志した意外な原点までを聞きました。
前編記事▶「夜が明けたら友だちはみんなこの世にいなかった」1957年諫早豪雨を経験した少年が医師となり先進的地域医療で抗加齢医学功労賞に輝くまで
に続く後編です。
このダイナミックな世界移動の間、ご家族はどうなさっていたのでしょうか?

1992年 大樹町立病院にて
ところで、札幌から長崎、ドーハ、ロンドン、フィラデルフィア、そして再び長崎から十勝へと、まさに世界を股にかけて医療に従事してきた満岡先生。この間、ご結婚やご家族は……?
「僕は大学卒業と同時に25歳で結婚し、29歳でカタールに赴任した時点で2人の子どもがいました。妻は札幌の出身ですから、長崎への帰郷も海外留学も十勝移住も、どれも家族にとって大きな決断でした。特に十勝への移住は迷いに迷いました。当時長男が長崎の進学校に入学したばかりで、あれだけ勉強して合格したのに退学だなんて考えられないと、相当強い抵抗にあいました」

当時の大樹町立病院。
しかし「家族が別れるのは良くない」という奥様のご方針のもと、家族全員で十勝へ移ることを決断。それ以前の、ロンドンとフィラデルフィアで過ごした約3年間は子どもたちも現地の学校に通っていましたが、帰国後には日本の小学校でいじめを経験するなど苦労もあったそうですが、それらはすべて後から知ったといいます。
「もちろん妻はすべて子どもたちから聞いていたのですが、僕が僕の志す医療に邁進できるようにと、妻と子どもたちのあいだで話し合って内緒のまま支えてくれていたんですね。後で聞いて申し訳なかったなと思いました。そのせいでしょうか、子どもたちは医師を志した時期もありましたが、最終的には別の道を選んでいます。今は優秀な人材がコンピューターサイエンスや金融に向かう時代ですから医師でなくてもとは思うものの、やはり少し寂しくも思います」
帯広での開業、抗加齢医学との出会い。「治療で救える命には限りがある。予防が大切」
満岡先生が開業の地として選んだのは帯広市。先輩医師から後継者不在のクリニックを引き継いでほしいと依頼されたのがきっかけでした。
1998年に帯広へ移り、翌1999年に満岡内科・循環器クリニックを開業するとほぼ同時に、満岡先生は国立帯広療養所(現国立帯広病院)で不整脈専門外来を開設。心臓電気生理学的検査やカテーテル・アブレーションなど、専門的な不整脈診療が可能な体制づくりに取り組みました。
「個人クリニックと拠点病院が連携できる体制を作り、地域の医療水準そのものをできる限り引き上げることが重要だと信念を持っていたので、体制を整えるため17年ほどがんばりました。この途中で僕は抗加齢医学と出会います」
抗加齢医学に関心を持つようになったきっかけは、やはりこの開業だったと先生は振り返ります。医療は日進月歩で進化するものの、心筋梗塞を含む救急医療の現場に向き合うほど、よりいっそう「発症前の予防」に意義を見出すようになったのです。
「ざっくりと言えば、当時は心筋梗塞を起こした人のうち1/3はそのまま突然死として亡くなり、1/3が入院先で死去、残る1/3がどうにか治療を受けて退院できるという割合でした。治療を手掛けるほど、心筋梗塞になる前に、動脈硬化にならないように予防する医学が大事だと思うようになっていきました。しかし、保険診療の仕組み上、予防医学には診療報酬が発生しない、つまりやればやるほど経営が苦しくなるという制度的な課題もありました」
アメリカではひと足早く1992年に抗加齢の学会が発足し、日本では2001年に抗加齢の研究会が立ち上がりました。先生はちょうどこの頃に学会活動に参加し、勉強を始めます。老年医学も並行して学びますが、看取りや介護の仕組みづくりが中心となる分野に対し、抗加齢医学は「みんなを元気にするためにどうしたらいいか」を追求する学問。
「たとえば食事ひとつとっても、美味しいものの中にはちょっと体にとって悪いものがある、そういうことを伝える場がない。必然的に地域の開業医の努力にかかってくるのですが、僕はアンチエイジングに貢献する手段として、ホルモン補充療法と良質なサプリメントの活用にも注目しました。もともと我々の体は健康になる仕組みを持っていますが、必要な栄養が取れていないとさまざまな不調が出てきます。これは勉強すればするほど広がる新たな世界でした」
学会で学びを深め続け、2008年には日本抗加齢医学会専門医に認定、2012年に日本抗加齢医学会評議員に推挙され、2017年には日本抗加齢医学会理事に就任。この間、世界的にも、心臓血管病の研究に関して権威ある米国心臓病学会正会員に推挙され、米国・英国の卓越した医学医療関係者紳士録へのプロフィール掲載、欧州心臓病学会正会員への推挙、日本心臓病学会の特別正会員への推挙など、国内外でさまざまな評価を受けます。
しかし、全国、全世界から評価を受けながらも、満岡先生の目線は絶えず地域の医療に向かっていました。十勝の地で30年以上にわたり地域医療に携わり、2024年には老朽化した建物の処分を所有者が望んだことから閉院の話が持ち上がります。当時76歳だった満岡先生自身も、いちどはもう引退してもいいかなと考えたそう。しかし、閉院を患者に告知したところ、思わぬ反応がありました。
「このエリアでは自分たちがかかる病院がもう他にない、私たちはどうなるの?と。確かに、自分のように予防医学を念頭に置いている医師は決して多くはありません。これは閉院するのではなく移転先を探したほうがいいなと考えた矢先、自宅の近くでちょうどいい規模のワインショップ跡地と出会いまして……さっそく購入し、リノベーションして、5か月の閉院を経て現在の場所で診療を再開しました。駐車場が手狭になったため、完全予約制に変更しましたが、変わらぬ医療を提供しています」
予防医学の普及と定着に必要なことって?
そんな満岡先生は、サプリメントの選び方には注意が必要だと考えています。
「現在、50~60%の患者さんは何かしらのサプリメントを飲んでいますが、なぜそれを選んだのかと聞くと、『宣伝が気に入った』『友達に勧められた』など。ですが、一人一人食事の内容も身体も違いますから、本来は自分に必要なものが何なのかを見極める必要があるんです。まだ啓発がじゅうぶんに進んでいない部分ですね」
さらに、女性の更年期障害に用いるホルモン補充療法(HRT)も老化予防に重要な意味を持つと満岡先生。ただし、同じHRTを行っても個人差が大きく生じる点を課題として挙げ、その要因の一つに栄養状態を挙げます。
「ホルモンはいわば、情報の伝達指令役です。指令を受けた体の細胞が指令通りに動けるかどうかは、必要な栄養素がそこにきちんと存在するかにかかっています。HRTの効き方に個人差がある理由の一つかもしれません。もう一つ、細胞内のミトコンドリアによるエネルギー(ATP)産生能力の低下も問題です」
加齢とともにエネルギーの産生力は落ちるため、適切な栄養や運動などによって、ミトコンドリアの働きを保つことが重要と指摘します。ガソリンがないと車も動かないように、我々もエネルギー源が十分にないと元気も出ないし、疲労も回復しません。
こうした背景を鑑みて、満岡先生が参考にしているのが、鹿児島市で健康教育に取り組む「りんご教室」。主宰するつみのり内科クリニックの山下積徳先生、奥様・まゆり先生の取り組みを学会で知り、直接メールで連絡を取ったことをきっかけに、日本の南と北で同じ志を持つクリニックが連携を続けているといいます。
(山下積徳先生インタビュー▶「次に死ぬのはお前だ」父の死で使命に気づいた医師が「全然誰にも相手にされない」健康医学教室を15年がかりで15都市に広げた一部始終)
「都会ですらどんどん高齢化が進む中で、高齢者自身が気持ちを縮こまらせず、意欲や体力を維持しながら自分のやりたいことに取り組み、可能であれば社会にも貢献できるよう、地域でサポートしていく必要があります。人間誰しもやっぱり1度は死ななきゃいけないのが人生なので、それまでの日々はできる限り元気に、楽しく暮らしたいですよね」
帯広を含む十勝地方は農業が基幹産業であり、北海道内でも所得水準の高い地域として知られます。こうした農業従事者の皆さんにもアンチエイジングに関する情報を届け、いつまでも農業に携わりたいという思いを支援したいといいます。予防医学に対する社会の意識も変化しつつあり、これからは「りんご教室」のように出張して授業する必要もあると感じるそう。
「結局、自分自身もアンチエイジングしながら仕事を続けています。ああでもないこうでもないと言いながら自分の体のメンテナンスを続け、その過程で得た体験、知識も併せて提供するのが抗加齢医学だと考えています。北大時代の恩師の『自転車はこぐことをやめると倒れてしまう。スピードが速かろうと遅かろうと動いてればまた何かが始まる、だから、ゆっくりでもいいから動いていなきゃダメだよ』という言葉が記憶に残っていますが、まさにこれこそがアンチエイジングの極意だと思うのです」
人生最大のピンチ、諫早大水害の記憶
ここまでお話を伺ったあと、医業にかけるこれだけの情熱のルーツについて改めて伺いなおすと、先生は小学校3年生の頃に経験した「諫早大水害」の記憶に触れました。1957年(昭和32年)7月、一夜にしておよそ500人が亡くなった大規模な水害です。
「一晩で500㎜の雨が降りました。諫早地域は有明海に面し、世界でも稀な5〜6mもの干満差を持つ地域です。当時は満潮時に海水が街の奥まで上がってくるほどで、河口付近では海の魚も獲れる豊かな漁場でもありました。水害当夜は大雨によって発生した土石流が川に流れ込み、諫早市内の眼鏡橋に大量の流木が詰まり、川の水が市街地に氾濫。夜が明けたらもう本当に周りが家がないような状況で、僕の家と隣の家の2軒だけが残った。夕方まで一緒に遊んでいた子どもたちは、一夜にしてみんなこの世からいなくなっちゃった。僕はかろうじて生き残ったんです」
この経験は、今も繰り返し立ち返る原点だといいます。
「僕はどうして死ななかったのか。仲間が全員亡くなって、なんで僕は死ななかったのか。それを常に思い出します。こうして要約して語ると僕は順調に人生を歩んだように聞こえるのかもしれませんが、もちろん常に壁にぶつかり続け、一つ一つを必死で乗り越えてきました。ですが、高い壁の前で呆然とする瞬間、僕の心はいつもあの日の諫早の夜明けに引き戻されるのです。ひょっとしたらあの時僕は死んでいたかもしれない。そうだ、いちど死んだ身なのだから、すでに死んだつもりで挑めばいい。何度も何度もそこに戻され続けて今日まできました」
選択の余地のない大きな運命の瞬間を経て、仮に自分に生かされた理由があるのだとすれば、精一杯に生きて多少なりとも人助けができるような人生を送らねばならないと語る満岡先生。この思いを原点に持つからこそ、人生のすべての瞬間を地域医療、抗加齢医学に捧げ続けていらしたのでしょう。満岡先生、このたびはご受賞を本当におめでとうございます。
お話/満岡内科循環器クリニック 院長 満岡孝雄先生
医学博士。米国心臓病学会正会員、欧州心臓病学会正会員、日本心臓病学会特別正会員。1948年長崎県諫早市生まれ。1974年北海道大学医学部卒業、長崎大学・橋場邦武教授のもとで内科および循環器(心臓病)内科の研鑽を積む。英国ロンドン大学ウエストミンスター医学校ウエストミンスタ-病院、米国フィラデルフィア・ト-マス・ジェファ-ソン医科大学ランケノ-病院に留学。北海道大樹町立病院院長、国立帯広療養所(現国立帯広病院)不整脈専門外来を経て、1999年に満岡内科循環器クリニックを設立。現在も北海道・十勝で地域医療、抗加齢医学の理想像に向けて日々の治療を続ける。
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