梅宮アンナ「育児放棄バッシング」の背景で起きていた「誰も知らない」これだけのこと#2
とどめは「大物司会者のたったひと言」だった。「うそか本当かはどうでもいい」のだと
――アンナさんは特に反論もせず、ひたすらバッシングを受け続けていた記憶があります。
私が育児放棄しているといううわさは、しばらくしたらおさまるかな、今は耐えるしかないのかなと思っていました。でも、あるワイドショーの大物司会者がこの話題を取り上げて「どうせ男を連れ込みたいから、子どもを親に預けとるんやろ」と言ったことでさらに大変なことになってしまったのです。
数日後、大きな仕事がキャンセルされたと連絡が入りました。急なことに驚いて担当の方に「本当の理由を教えてください」とお願いしたら、その大物司会者のひと言が原因だと。
私は事情を説明したのですが、その方ははっきりと「申し訳ないんですが、うそか本当かはどうでもいいんです。大切なのはイメージです。特に、地元でのあの方の影響力は大きいんですよ」と言われました。
今だったら、もっと上手に説明できたり、立ち回れたりするのかなとも思います。でも、当時は、朝から晩まで仕事と育児の両立に必死なのに、いったいなんでそんなこと言われないといけないの? 今、この瞬間、私、百々果の習い事の送り迎えしていますけど? 昨日は、娘のバレーボールの応援に行きましたけど? 今、私がやっていることは子育てじゃないの? と、腹が立ちすぎて混乱していました。
それにしてもその司会者の影響はすさまじく、いっとき仕事がガクンと減ってしまったんです。親子で暮らしていく生活費や娘の学費を稼がないといけないし、娘の将来のために貯金もしないといけないのにと焦りました。
助けてくれるパートナーはいませんから、生活はすべて私の肩にかかっています。きれいごとは言いません。なんでこんな仕打ちをされないといけないんだろうと思って、「あの司会者の口を縫ってやりたい!」ってしばらく怒っていました。他にも、別のワイドショーの司会者に「アンナちゃんは、母親じゃなくて女を取ったってことでしょ。認めなよ」と、わけ知り顔で言われたりもしましたね。
梅宮アンナは、父に生活費の面倒をみてもらっていたんだろうと思い込んでいる方も多いようなのですが、そんなことは、まったくないんですよ。この頃は、昔おつきあいして世間を騒がせていた彼の借金の保証人となったことで背負った借金も返していましたから本当に大変だった。
——借金の額はいかほどか、伺ってもいいですか?
8千万です。その借金をなんとか全額返し終わったのは40歳手前で、そのとき初めて父に報告しました。父は、まったく気づいていなかったようで驚いていましたね。
大手事務所をやめたのは、子どもの運動会に行きたかったから
――バッシングは本当に、一度火がつくとコントロールできなくなると聞いています。
育児放棄バッシングも、デビュー当時からお世話になっていた大手事務所にいたら、ここまで炎上しなかったかもしれません。やはり大手事務所には、そういった火消しのノウハウがあるんです。特に私を担当してくれていたマネージャーさんは優秀でしたから。
でも私は、娘の運動会に行きたくてその大手事務所をやめたんですよ。百々果が5歳の頃でした。
父、梅宮辰夫は、私が進級すると同時に手帳を開いて「アンナ、学校行事の予定表を持ってきなさい」と言うんです。そして、運動会や文化祭、授業参観などの予定を自分の手帳に書き写すと、事務所に「俺はここは仕事しないから。よろしく」って伝えるのが毎年の春の恒例。だから、私もそれが当たり前のことだと思って、仕事よりも娘の学校行事を優先していました。でも、事務所ともめたんです。
ある方の名前を引き合いに出されて、××は仕事を優先しているんだぞ、と言われもしました。でも私はとっさに「それじゃあ、私は何のために子どもを産んだのよ」って反論していました。毎日、必死に働いている一番の理由は子どものため。それなのに、子どもの成長過程を見られる、「行事見学という親にとっての最高のごほうび」がなかったら、少なくとも私は働くモチベーションが迷子になってしまいます。
事務所をやめるときは、離婚を決めたときと同じ。周囲の人全員に「バカだ」と言われて反対されました。
———そういえば、お父さまも子育てを優先してお仕事を失った、なんてお話ありましたよね?
そうそう! そうなんです。父は30代半ばでガンを患い、死も覚悟するよう医師に言われたとき、自分のこれまでの生き方をおおいに反省したんです。
母に聞くと、それまでは、朝6時半まで銀座で飲んで、7時から現場に入るという、いかにも昭和の大スター的な破天荒な生活をしていたんですって。そんな人が、もしまだ生きることができるならば「家族第一、子ども最優先の生活にしよう」と自分に誓い、それを見事に実行したんです。
私が2歳頃だったでしょうか。ある現場に、私を右手に抱え、左手には私のおやつや、万が一粗相をしたときの着替えなどを詰めたマザーズバッグならぬファーザーズバッグを持って入ったら、監督が怒ってしまったんですって。「スケコマシの役なのに、なんなんだおまえのその格好は! そんなやつと、この映画がやれるか!」って。
結果、自分のやり方を貫き通した父は、仕事を降ろされてしまったんです。でも「仕方ねえなあ」と思って終わりだったって。それこそ、当時は周囲から「バカだ」と言われていたかもしれませんよね。
——大きな後ろ盾をなくしても子どもを優先させたアンナさんと、まだ育児参加する男性など少数派だった昭和という時代に、仕事を失っても育児を優先させたお父さま。やはりどことなく生き方も似ていらっしゃる。
知らず知らずのうちに梅宮辰夫の生き方に影響を受けているんでしょうね。結局、百々果が高校生になる頃に父の体調が思わしくなくなったので、また家族全員一緒に暮らし始めました。そして父は晩年のほとんどを大好きな真鶴の別荘で、ひとりで過ごすようになりました。
母は都会が大好きでしたから、主に東京で私と百々果と生活。あれだって、切り取り方によっては「梅宮辰夫、晩年は妻子に見捨てられて寂しく独居!」なんて報道されたりする可能性もありましたよね。イメージっていくらでもつくれるんですよ。
このあと、不気味な現象が起きる家への引っ越しや、百々果の不登校など、またいろいろなことが起こるのですが、それはまた明日お話します。
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取材・文/斯波朝子(オフィスCuddle) 撮影/廣江雅美
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