「いちばん辛い言葉は『いい旦那さんだったのにね』でした」自死遺族・乳がんサバイバーの彼女が立ち直れた「きっかけ」

この時代に必要だとされる概念「グリーフケア」の現場を追ったドキュメンタリー映画、『グリーフケアの時代に』。グリーフとは、喪失に伴い起きる「悲嘆」「嘆き」と翻訳されます。これらの喪失をケアするのがグリーフケアです。

 

作品にはさまざまな形のグリーフを抱えた人たちが登場します。その背景を監督が語った記事『わが子の死、ペットとの別れ、震災で故郷を失う。すべての悲嘆を等しく分かち合う「グリーフケア」がいま必要である理由」』は静かな共感を集めました。

 

作中で「グリーフに向き合う人」の一人、三井祐子さんは、自死遺族であり、乳がんサバイバーでもあります。そのあまりにも波乱に満ちた半生は「ひとときたりとも安寧の瞬間がなかったのではないか」とも思えるほど。三井さんにとってのグリーフとケアを伺います。

 

借金返済に追われる一家。ある日帰宅したら祖父がこの世を去っていた

がんサポート団体Owlsの活動でご自身の体験を話す三井さん。

「幼少期、大変だったかというと……そうですね、今思えば大変でした。私が幼稚園のころ、当時30代前半の父が建設事業に失敗して大借金を作ったところから話がスタートします」

 

こう語り始めた三井さん。軽く明るい口調で続けます。

 

「父は自己破産はせず、返済を選びました。それまでは父と祖父が2人で建てた家に住み、父は車をすぐに乗り変え、夏休みには両親、弟と家族でいいホテルに泊まったりと、裕福な社長一家でした。それが一気に崩壊、家族総出で働きに出る状態に陥りました。一軒家も借金のカタにとられて、お風呂もない古いぼろぼろのお家に引っ越して、家にサラ金の取り立てもやってきて」

 

自宅で債権者会議が開かれ、サラ金の取り立てがくれば「静かに、いないふりをしろ」と障子に布をかけ、戦時中の灯火管制のように明かりが漏れないように隠れる事態に。ドンドン、いませんか!いるんでしょ!!!と、テレビみたいに叫ばれる中、お母さまはずっと泣いていたそうです。そんな中でも三井さんと弟さんが道を踏み外さなかったのは、ひとえにお母さまの愛情を実感できていたからだと言います。

 

「家、持ち物、生活を奪われたのはグリーフ、喪失体験でした。でも、母親は子どもに対する愛情表現を欠かさなかった。貧乏ながらも愛があり、心のさみしさはなかったんです。母は子どもをしっかりと見つめ、働きに出て忙しい中でもご飯だけは毎日手作りで作ってくれました。忙しいのに毎日面倒を見てくれているということが救いで、私は不登校になることもなく無事に高校まで卒業しました」

 

しかし、お友達にはこうした事情は話せません。なかでも話せなかったのは、小学校5年のときの衝撃的なできごと。お祖父さまが、自分の息子の事業失敗を苦に、家族で買い物に行って帰ってくるほんの少しの間に自死していたのです。

 

「このことは絶対誰にも話せないと子ども心に思いました。祖父はとても難しい人で、自分が築き上げてきた資産を息子の失敗でとられた、それを恥じたようでした。私に対してはとても厳しい祖父でしたので、あまり好きとも思っておらず、悲しいというよりはとにかく大変なことが起きた、これは誰にも言っちゃダメなんだなという感覚でした」

 

自死遺族の心に残される「私のせいかも」という呪い

さらには、三井さんは「自分のせいで祖父が世を去ったのかも」という自責の念に苦しめられます。

 

「自死する何日か前、夕飯を囲んでいるとき、父母は祖父の行動に予兆を感じたそうです。みんなでどうしたのと心配し、精神科に連れていき来週には入院させるという話になっていたと聞きました。私はその後もしばらくの間はまた家族の誰かが死んでしまうかもしれないと不安にかられ、現場を何度も見に行き、生存確認を繰り返しました。人は自ら命を絶つことができるんだな、病気や事故で死んでいくだけでなく、自らの意思で死んでしまうことがあるんだと心に刻まれてしまったのです。母はよく泣く人でしたが、あまりにも泣くので母も自死を選ぶのではと不安になってしまって。この経験から、私は子どもの前で泣かない母親になりました」

 

いっぽうで、この体験を持ちながら「道を踏み外さなかった」背景も、同様に家族との関係性の中にありました。

 

「私が生まれ育った飛騨高山では小学校からスキーの授業があります。みんな新しいスキー板を買ってもらうのですが、我が家は買えず、お古のぼろぼろの板を持っていきました。周囲にはさんざんバカにされますが、私は泣かず、言い返しもせず、ただ聞き流していました。今でも私は辛いことも悔しいことも、その場では言い返さず微笑んで流しますが、いっぽうで当時からその直後にすぐ誰かに吐き出していました。これができたから、私は自死せず生きていけたのだと思います。帰宅してすぐ母に、誰にこう言われた、ショックだと訴えると、母が学校に電話して担任に伝える。すると、学校の担任がそんなこと言っちゃだめだよと注意します。こうして、幼いころから対処法を見につけられたのだと思います」

 

三井さんが成人する直前までは一家が借金返済に追われており、三井さんも弟さんも大学に進学したいとは口に出せず自分で稼ぐしかない状態でした。父親は建築会社に再就職し、借金返済のため365日、朝から深夜まで掛け持ちで働き、祖母はホテルの皿洗い、母はお菓子の製造工場。この家の中で自分は何ができるのか、2つ下の弟の面倒を見なくちゃ、働いて疲れている母親の家事を手伝わなきゃ、という気持ちにならざるを得なかったと言います。

 

「中学のとき、母にとにかく高校だけは出すと言われました。同時に、子どもが稼いだお金は子どもが使いなさいとも。なので、高校3年間はウェイトレス、お弁当屋など、ずっとアルバイトをして、部活の吹奏楽の楽器やエレクトーンを自分で買いました。父母の誕生日には小さなプレゼントを用意しました。楽しみのまったくない暮らしにならずに済んだのは、お金がない中でも消費を完全な悪とせず、『子どもは子ども』と切り分けてもらえたからだと感謝しています」

 

暮らしぶりこそ大変でしたが、父母を嫌いにならなかったのはそこに愛情があったからだと振り返ります。

 

「母はいまでも貧乏ながら、誰かに何かしてあげたい気持ちが強い人。私もそれを受け継いでいるのかもしれません。自分のことより、人のことに使うお金が多いんです」

 

暖かい家庭を夢見て結婚。しかしご主人がメンタルの調子を崩し暗雲が立ち込める

ドキュメンタリー映画『グリーフケアの時代に』舞台挨拶で、中村監督(右から2人め)と。

高校卒業と同時に就職し、自分のお給料で車も買った三井さん。いくつか職を移りながら、26歳のときに6年交際したご主人と結婚します。このころ盲腸での入院をきっかけに医療の仕事に興味を持ち、三井さんは医療事務の仕事をスタート。27歳で男児、31歳で女児を出産しますが、第一子出産後の29歳のときにご主人のメンタルの状態が悪化、入退院を繰り返すようになりました。

 

「長男が1歳になる前から何かおかしいなと感じていましたが、1歳になるころ、買い物から帰ってきたら夫が布団をかぶって震えていて。どうしたの?と聞くと、もう仕事はできない、新聞で読んだけれど俺はうつ病なんじゃないかと思うと、絞り出すように言うんです」

 

思えば交際中の22歳ごろにも似たようなことがありました。土木関係の仕事に就いていたご主人が突如会社に行けなくなり、総合病院を受診したものの、何でもないよと言われ、しばらく家でぶらぶらしてる間に次の仕事を見つけてきたそう。当時はうつ病という認識が社会にも薄く、深刻に考えませんでしたが、いま思えば発症していたのでしょうねと振り返ります。

 

そこからは波乱万丈でした。3か月もの長期入院が年に3回あり、3年ほどは非常に厳しい病状が続きました。やがて一度は寛解(治癒)となりひと安心、家も建てたい、子どもももう一人ほしいよねと夫婦で話し合い、長女を授かります。ですが、出産からわずか1か月で一気に鬱状態に陥り、希死念慮(自死したい願望)も強く出てしまったため、再び入院に。

 

「生後1か月の娘と4歳の息子に加えて、夫の世話もして仕事を続ける、いわばマイナスワンオペの暮らしが始まりました。このころ夫には双極性障害の診断が下り、ちょっと仕事をしては長期休んで、入院もしてという状態が続きました。結局のところ発症から5年は荒れに荒れて、入院中の病棟で躁転(躁鬱の躁状態が始まり、過活動になること)して暴力沙汰を起こしてしまったりと、気苦労も絶えませんでした」

 

私にできることは働きに出ることと、子どもを文字通り食べさせることだけでした、と三井さん。

 

「下の子が生後6か月から、朝いちばんから夜最後まで保育園に預かってもらって、子どもは本当に保育園に育てていただきました。そして、私もやはり母のように、朝夜だけは手作りの料理を食べさせることに全力を注ぎました。一緒にいてあげられる時間があまりに短いから、そこでしか母としての愛情を表現できなかったんですね。料理・洗濯・家事は我ながら完璧にこなしてきたと思います。それも母がしてくれたことそのものでした。そのおかげでしょうか、子どもは2人とも、朝眠くてもがんばって食べて学校に行く習慣がつきました」

 

夫も、家族も、全員が本当に全力の限界だった。夫がこの世を去っていった

2人のお子さんと。息子さんはすでに実家を離れて自立。

そうこうするうち、上の息子さん中2のころから反抗期が始まります。すさまじいと言うべき反抗期だったと三井さんは振り返ります。

 

「夫に向かって、『なんで働かないんだよ、あんたがしっかり働かないからうちの生活レベルが低いんだよ』と言ったことがありました。慌てて『お父さんだってなりたくて病気になったわけじゃないから!』と叱りましたが、正直言って息子が生まれて以来、夫は闘病していない瞬間がなかった。もちろん夫本人がいちばんつらいのですが、ずっと働けない夫を見ている家族もつらいのです。精神障害はよほどの重症でない限り社会的支援がほぼ何もなく、経済的不安もとても大きい。私だって不安でおかしくなりそうで、解放されたいという思いも芽生えていましたから、思春期の子どもたちはなおさらでしょう。そうした思いがつのっての長男の反抗だったと思います。壁はそこらじゅう穴が開き、大声で怒鳴って裸足で飛び出して実家へ走っていったり。学校では勉強もできて生徒会活動もこなす優等生なのに、家での荒れ方がすさまじかった」

 

とにかく一緒に住んでいるとぶつかることばかりで、それを見ているしかなかった下の娘さんにはもっと強いストレスがかかっていただろう、だから娘はとても聞き分けのいい子だったと三井さんは振り返ります。

 

「そうこうするうち、私が43歳、息子が高1になったころに、夫は体がねじれてしまうジストニアという病気を発症しました。首の筋肉の硬直まで現れたためボトックスを打ったのですが、その副作用で嚥下困難になり、脱水防止のため点滴治療でしのぐような状態に。でも、総合病院では急性期以降の治療を拒否され、精神科に行きなさいと冷たくあしらわれるばかり。やむを得ず精神科病棟に入院したことで夫のメンタルはさらに落ち込んでしまいました。心の休まることのない日々に私も限界を迎えていて、1か月で夫が退院してくるタイミングで『私の人生はあなたの闘病で終わるのか、いいかげん解放してください』という話までしてしまいました」

 

ご主人は障害年金2級の申請に一度は通ったものの、仕事ができているという判断で却下になっています。ジストニアも難病指定の先天性ではなく薬剤性と診断を受けたため、公的支援を受けることができませんでした。家族全員が精神的に限界を迎えつつある中、ご主人が退院してきます。翌日、日曜の雪の予報を前に、車のタイヤをスタッドレスに交換してくれたそうです。

 

「身体もつらいだろうに、いま思えばやれることだけはやろうと思ったのかもしれませんね。そのあともきっと朝まで眠れず、苦しい気持ちと戦ったのでしょう。そしてなかばパニックになって家を飛び出したのだろうと思います。日曜の朝、起きたら夫は家にいませんでした」

 

リビングのカーテンレールが折れているのを見た三井さんは、かつて自分の祖父に起きたことを思い出します。

 

「ああっ、と思ってすぐ近所にある夫の実家に電話をかけ、夫がいない、もしかしてそっちに行ったかもと伝えると、探してくると切れました。すぐに折り返しの電話がきました。農作業小屋にいたが、もう冷たくなってると。すぐ駆けつけましたが、すでに遺体はおろしてありました。蘇生をがんばりましたが無理でしたと。途中からずっと現実感がなく、なんでこんなことになるんだ、なんで、いったい私っていまどういう立場なの、なんで気づかなかったんだろうと、自分の体と心と現実が乖離したような、膜がかかった中に自分の意識がぽつりと浮いているような感覚でした」

 

誰かが命を自ら断ったあとには、本当にいろんな感情が押し寄せてくるのですね、と三井さん。支えてくれた人たちに申し訳ないという気持ち、解放されたがっていた自分の気持ち、またそう思ってしまった自分を責める気持ち。

 

「葬儀のときいちばん辛かった言葉が『いい旦那さんだったのにね』でした。優しい旦那さんだったのに残念ねと言われたとき、私のせいでそんないい旦那さんが死んじゃったのかと。みんな遺体の前で泣くのをやめてって大声で泣きわめきたかった。母親もたつじくん、たつじくんとずっと名を呼んでいる、本当に優しい子だったのにと泣いている。もう正直頼むからやめてほしい、私はここで表情もなく泣きもせずぼーっと座っているけれど、苦しくて苦しくて仕方ないのだ、ただ現実に心がうまく追いつかないのだ、そう叫びだしたくなる気持ちで聞いていました」

 

しかし、三井さんが「限界を迎えた」ことには理由がありました。実は三井さん自身も乳がんに罹患し、支えるもののない中でも強烈なグリーフに折り合いをつけながら闘病している最中だったのです。

 

前編記事では三井さんが2度に渡り大切な家族の自死を体験した経緯を伺いました。後編記事では三井さんご自身の身に起きたことと、現在までの心の変遷、そして取り組み続けている活動について伺います。

 

つづき>>>「なんで私だけ、夫も乳房も子宮も亡くすのか」自死遺族・がんサバイバーが今となって「伝えたいこと」

 

三井さんが主催するサークル
「飛騨高山がんサークルOwls」
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