「家族が体験した能登半島地震を書き残そうと思いました」シナリオライターに聞く「そのとき」のこと

2024.02.01 LIFE

輪島市町野町出身のシナリオライター、藤本透さん。ご実家は輪島市の中でも珠洲市と隣接するエリアにあり、1月1日の能登半島地震で被災、完全に倒壊しました。

 

藤本さんは発災から28日後、家族との再会を果たし、当日何が起きたのかを被災したご両親と帰省中の妹さんから聞き、記録をX(旧ツイッター)で発信。その内容は「冷静な筆致だけに緊迫感がすごい」「自分が直下型地震に見舞われて被災する場合にどう備えるか、ケーススタディとして完璧」と反響を呼んでいます。ご許可をいただき、投稿内容に一部加筆・編集のうえで配信します。

 

(TOP画像は1月2日撮影の輪島東地区上空正射写真。地震で崩落した山間部斜面の大量の土砂が町野川を流れ、河口から海へと流出している。国土地理院サイトで当該画像を拡大すれば、この河口部もまた隆起しているさまが見てとれる。出典・国土地理院ウェブサイト https://maps.gsi.go.jp/)

 

 

シナリオライターの藤本透と申します。現在は東京都在住です。私の出身である輪島市町野町は、令和6年能登半島地震において甚大な被害を受けました。

 

発災直後から通信が途絶え、辛うじてその日の夜遅くに妹が公衆電話から全員の無事と家屋の全壊を知らせてくれてからというもの、三週間の間ほとんど連絡が取れずにおりました。

 

以下に記す記録は、発災から28日後に妹、母、父がはじめて語ってくれた能登半島地震の「そのとき」のことです。

 

●妹

発災時は、姉(編集注釈・藤本透さんのこと)からのLINE「地震大丈夫?」に返信した直後だった。ひどい揺れが襲ってきた。家中のものが落ちて飛び出して散乱した。 父が立ち上がろうとするのを押さえつけ、とにかく揺れが収まるのを待った。

 

揺れが収まった後は、このまま家にいてはいけないと思い、両親と共に勝手口から外へ出ようとした。 そのとき、外から「藤本さん家、潰れとる!」と近所の人の悲鳴が聞こえた。 父が「(そ)んなわけあるかい!」とスリッパのまま飛び出して行ったが、家の1階部分は完全に潰れて倒壊していた。

 

その被害を確かめる間もなく、次の地震が起こり、「早よ出て! 出んと潰される!」と近所の人たちに呼ばれて外へ出た。

 

母はコートを取りに家の奥に入ってしまい、「早く! 早く!」と急かした。あの時は必死だったが、すぐに母の行動は必要だったとわかった。

 

日没が迫る時間帯、外はとにかく寒く、みんな震えていた。それでも倒壊した家の中に戻れるはずもなく、広い駐車場に近所の人たちで集まり、ひたすら余震が去るのを待つしかなかった。

 

みんな着の身着のまま、大怪我を負いながらもどうにか倒壊した家から抜け出した人もいたが、電話も通じず、どうにか布団を渡して温めることが精一杯だった。

 

近所の人が車を出して大怪我の人を病院に運ぼうとしたが、道が崩落して輪島市内まで行くことができずに、引き返すことになってしまった。その後、病院に運ばれるまでは三日ほどの時間を要したとあとになってから聞いた。

 

助かったのは運がよかった。午前中だったら、もし誰かがトイレにいたら、玄関に出ていたら、倒壊した側なので、無事ではいられなかった。

 

●母

発災時はリビングの傍にある台所にいた。とてつもない揺れで、立っていることもできず、その場に座り込んでしまった。

 

テーブルの下に入って! という教えがあったが、いざ今回のような規模の揺れが突然きたら、立っていることはもちろん、動くことすらできなかった。とにかく揺れがひどく、家中から大きな音が沢山響いていたのだけは覚えている。

 

ふと気がつくと、木箱が自分の横にあった。揺れが収まってから良く見ると、流しの上にあった大黒様が台座ごと降ってきていたことがわかった。あと少しずれていたら、命はなかったと思う。

 

どうにかコートだけでもと思い、余震の中コートを持ってスリッパのまま外に出た。家は潰れてなくなってしまっていた。本来の玄関に向かおうとは思わなかった。リビングから最も近い裏口の戸が開けられたのは 不幸中の幸いだったと思う。

 

2007年の地震の際に家屋を一部建て直した際、地盤を改良したことで、リビングは倒壊を免れることができたのではないかと思う。もしもあの時建て直していなかったら、助からなかった。

 

怪我をしている人、ショックか怪我かで顔面が紫色になってしまっている人がいたが、身体を温められるようなものもなく、みんな着の身着のままだった。

 

見渡す限りの家が倒壊していた。余震が続くなか、駐車場に集まり、皆呆然としていた。言葉もうまく出てこなかった。

●父

発災時はトイレからリビングに戻ってきたところだった。揺れの中、冷蔵庫が妻の方に倒れるのではないかと気が気ではなく、どうにかしなければと思ったが娘に押さえつけられて引き止められた。

 

揺れが収まった後は、娘に言われて外に出ようとした。近所の人にうちが潰れていると言われ、耳を疑ったが、そのとおりだった。家がなくなっているのがわかり、震えが止まらなかった。

 

(藤本注釈・実家は、2007年3月25日の能登半島地震の際に半壊し、その際に減築して建て直したリビング部分だけが辛うじて倒壊を免れました。17年前の地震で家の半分を、今回の地震で家の全てを失っただけでなく、大好きな地元の町並みも失われてしまいました)

 

●妹

発災後、しばらくたってから、近所の人たちと声をかけあい、余震が続く中、避難所である町野公民館へ移動した。 どこもひどい状態で、倒壊を免れた家屋も中は無事ではなかった。

 

公民館は、元日ということもあり、開いていなかった。 先に町野小学校が開き、避難所として開放された。

 

21時ごろになって、離れたところで被災した職員の方が到着した。路面等の問題もあり、徒歩で移動しなければならず、時間を要したものだ。 家族や親戚、近所の人たちと協力して、備蓄してあった水や毛布をみんなに配った。

 

高齢者優先で配布するように心がけたが。いつの間にか全て配り終えていて、自分たちの分がないことに気がついた。 その後、東陽中学校が開かれ、そこで備蓄の毛布が見つかったので、配布場所を確保し、みんなで手分けして配った。

 

23時ごろになり、ようやく一段落ついたので、公衆電話に向かった。災害伝言ダイヤルに録音するつもりだったが、親戚からのメッセージは再生できても、こちらから録音することはできなかった。ひとまず姉に、家族の無事と家が全壊し、車もないことなどを知らせた。

 

●妹

翌日から炊きだしが始まった。水は備蓄があったのかどうかまではわからないが、これは飲める水、これは飲めないので煮沸して使う、などとの説明を受けた。

 

粟蔵のプロパン店さんがプロパンガスを運んできてくれたので、炊き出し用の大きなガス器具を使うことができた。 豚汁などの調理は町のイベントでやったことがあったが、ごはんを炊くのは初めてで、炊き方が分かる人に聞きながらごはんを炊き、おにぎりを作って配布した。

 

●母

設置された仮設トイレが段ボールタイプで、職員の方が他にもやることがあるのにこまめに掃除に入っていた。大変そうだったので、話を聞きながら様子を見て、清掃方法を覚えた。仮設トイレは高齢者には 使い慣れないこともあり、2時間くらいで酷く汚れてしまうので、先回りしてこまめに掃除を心がけた。

 

職員の方にはその人しかできない仕事があるので、自分が率先して引き受けた。昨年、事故で脳挫傷となり、嗅覚を失ってしまったが、この時のためだったのだろうと思った。災害時の衛生管理は重要であるので、感染症の予防のためにも必要だった。自分が手伝ったことで、手助けしてくれる人たちも増えた。

 

●妹

避難所生活は、とにかくやることがあった。 自分と両親はマルチプレイヤーとしてできることはなんでもやったと思う。

 

●母

自衛隊が空路から支援に入るようになってからは、毎朝8時にヘリが到着し、灯油や支援物資を運んできてくれていた。

 

物資が届くと「男性の方、手伝ってください!」と呼びかけがあり、協力しあって運んだり配布を行った。 段ボールベッドや仕切りは備蓄があったようだが、寝返りも打てないほどたくさんの人が避難していたので、設置するスペースがなかったため、出せなかったのだと思う。

 

今でも思うのは、このような未曾有の災害の際にどうやって身を守るのか、守れるのかということ。自分たちはたまたま運がよかったと思うが、運の善し悪しで生死が決まるものなのか、決まってしまっていいのだろうか。どうにか一人でも多くの人が生き延びるための手立てはないのかと、考えてしまう。

 

どこかで災害があっても、今まではどこか他人ごとだと思っていた自分を恥ずかしく思う。実際に「そのとき」が起これば、想像の数倍の恐怖とストレスが瞬時に押し寄せてくる。
不平不満を言っている暇もなく、ただただ今を生きることで必死な状況での避難生活だった。その中でも、自分のできること、やるべきこと考え、行動する体力があったこと、ずっと一緒にいて支えてくれた家族にも、感謝しきれないほど有り難い気持ちでいっぱいだ。

●父

みんなを励ます役を引き受けていた。本当に自分も大変な中、被災者が被災者を支えながら避難所を運営していた。 炊き出しを引き受けた人は、並々ならぬ覚悟であったと思う。本当に頭が下がる。 市の職員は一人しかおらず、体育館の壇上で皆で支え合うように呼びかけがあったほどだった。 皆で助け合ったことで、これまであまり交流がなかった人とも親しくなれたように思う。

 

 

この前編記事では藤本さんのご家族の被災経緯を教えていただきました。続く後編記事では妹さんが避難所を経験して感じた「必要な準備」についてお話いただきます。

 

▶後編▶▶能登半島地震の被災者が改めて語る「非常持ち出し袋に本当に入れておくべきだったもの」。意外なものが重要

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