平凡な40代がゴリゴリに不倫したあげく保身と欲のために嘘をつく。元TBSアナを学び直しへと駆り立てた一人の男の行動とは?

2025.04.28 LIFE

思いもよらず、顔なじみの保険外交員・杉山とすれちがい、挨拶を交わしてしまったのです。まずいなと思いつつ、素知らぬ顔で帰宅。妻には「渋谷で映画を観てきた」「まあまあだった」なんて調子よく嘘を伝えた石野でしたが、三日後、刑事の訪問を受けることに。

16日の午後九時三十分頃、新大久保で杉山に会ったかどうか、と問われたのです。ぎくりとする石野。会ったと言えば、なぜ新大久保にいたのかを説明しなければならない。愛人の存在がバレれば出世も家庭も破滅だ…と、石野はとっさに「会わなかった」と答えてしまいます。

あの日すれちがった杉山は、同じ時間に別の場所で発生した殺人事件の容疑者として逮捕されていたのです。しかし、その時間に新大久保にいたことを石野は一番知っています。だってすれ違って挨拶までしているのですから。

自分の証言ひとつで杉山の無実は証明される、でもそうすると自分の愛人の存在もつまびらかにしなくてはならない…。良心の呵責と出世欲、浅ましい保身との間で、石野は「杉野とすれ違ってはいない」と頑なに主張し続けます。

このままなら杉野は死刑かもしれない、でも、自分にとっては全然知らない人だし…。このままうまくいけば何事もなかったように静かな日常が戻ってくるかもしれない。

そんな中、思わぬ形で石野本人が殺人の容疑をかけられる別の事件が起こってしまい…という展開。

保身と出世欲…誰もが陥る「幸せジレンマ」とは

とにかく、小林桂樹の出世したい、家族と仲良く暮らしたい、愛人がいれば最高、でも毎日同じことの繰り返しは嫌だ、でもでも穏やかな毎日に勝る幸せはないのかもしれない、という誰もが日常的に陥る「幸せジレンマ」と、人の命がかかっている一大事であっても自分のちっぽけな保身を貫きとおす狡さ。

正直、誰もが石野を見て、なんとなくどこか自分と重なる部分を感じてしまうような、不気味なリアリティが存在するのです。一度ついた嘘をきっかけに、どんどん石野の平穏だった日常の歯車が狂い始めます。

そして、穏やかでなんてことはない日常がどれだけ幸せなことであったかということに気づいてしまうのです。もう、痛々しいほどに。

愛人との関係を清算し、それまでしてこなかった家族サービスまで慌ててするようになります。この感じ…バカだなあと思いつつ、なんだかすごくわかる。

「平凡」の尊さ、忘れてない?

住む家があり、待っていてくれる家族がいて、コンスタントに仕事があり、好きな友人に会おうと思えばいつでも会える。普通に考えれば、これだけ幸せな日常はないはずなのに、あるものよりもないものの方を数えて、「もっとお金が欲しい」だの、「もっと旅行に行きたい」だの、「もうちょっと日常に刺激が欲しい」だの、穏やかな生活があるにもかかわらず、「もっともっと」と欲しがってしまう自分がいるのです。

石野は、その「もっともっと」という刺激を求め、愛人を手に入れ、なかなかその生活から抜け出せなくなっていましたが、自分の手元にあった会社員生活や家庭というピースの存在がもしかしたら脅かされるのかもしれないと言う危機的状況になったときに、初めて「平凡」の何にも変えがたい存在価値を痛感するのです。

この作品は1960年公開ですから、もはや半世紀以上前もの作品。人によってはモノクロの映画と言うだけで敬遠するかもしれませんが、これだけ私たちの人間心理を深くえぐり、そして誰であっても自分と重ねてしまうような、1人の人間の器の小ささや情けなさをありありと描き抜いている。この作品はとにかく凄いとしか言いようがないのです。

平凡こそ実は幸せの究極体なのでは、と寄り道を重ねた上で気づく世の真理。私は本作品を、テレビ局を退社した後たまたま目にしたわけですが、やっぱり映画ってすごいな、ということに気づかされました。そして、やっぱりこの世界が好きだし、文章を書きたい!という熱を与えてくれたのです。

私にとっては、巡り巡って「博士課程」という自分にとっての新たな挑戦のきっかけを与えてくれた大切な1本でもあります。時折これを見返すことで、今の自分の立場や生き方がいかに幸せであることかということを思い出させてくれる、踏み絵なのか、いや、日常のリトマス試験紙であるかのような、そんな作品です。

石野の嘘が最終的にどのような形で着地するのか。これは必ずや多くの方に観て確かめていただけたらと思います。

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