だいたひかる、「友達いらない発言」の背後にチラチラ見えるこの病理

2020.11.13 LIFE

先週、芸人・だいたひかると、今大変なことになっているフリーアナウンサー・小林麻耶をネタにさせていただいたわけですが、今週は引き続き、だいたひかるについて書かせていただきましょう。

 

だいたがオフィシャルブログでつづった「友達いなさそうって言われるんだけど、友達いらないって思っています」「友達というテイの腹の探り合いに参加するつもりがないので…」が話題を呼んでいます。辛口コメントで知られるヤフーコメントでも、「私も同じです!」と賛同の嵐。なんだよ、私が何か書いたときはクズとか文句ばっかり言うくせにさ。

 

今の時代に芸能人が「友達はいらない」「友達というテイの腹の探りあい」と書くのは、勇気がいることだったのではないかと思います。

 

「女ともだち」が、自慢のアイテムになる時代がやってきた!

1998年~2004年にかけて放送された「セックス・アンド・ザ・シティ」、2014年のNHK連続「花子とアン」など、2000年代から緩やかに「女性の友情」に注目が集まってきたように思います。

 

映画版「セックス・アンド・ザ・シティ」では、主人公キャリーが結婚式に花婿に逃げられるという屈辱を味わいますが、友人三人はキャリーと新郎が行くはずだったハネムーンに自分たちが代わりに行っています。おいおい、家庭や仕事どうすんねんという感じですが、こんなつらいときでも、私たちはあなたを見捨てないという細やかな愛情表現は、同性ならではの良さだと思います。

 

「花子とアン」においても、同じです。主人公の村岡花子が疫痢で息子を亡くしたとき、友人の蓮子はすっ飛んでいくのです。朝ドラのヒロインは困難に遭遇したとき、オトコや家族の励ましで立ち直るのが常でしたが、他人、しかもオンナのはげましで力を得たというのは、実はとても珍しいことではないでしょうか。

 

「オトコってそんなに役に立たない」ぶっちゃけみんなが感じていたコト

少し前まで、女性が誇るべきは「素敵な彼氏」だったものでした。見た目がよくてお金持ち、そういう人が自慢の対象だったはずなのに、女性たちは気付いてしまったのかもしれません。あれ、オトコってセックス以外でそんなに役に立たなくない?

 

特にSATCや村岡花子のように仕事を持っている女性にとって、男性は食っていくために絶対に必要なものではない。となると、自分の気持ちをわかってくれて、つらいときにもそばにいてくれる女友達がいることのほうが「自慢」になるのかもしれません。

 

女友達と言えば、こんなツイートを見たことがあります。女友達に裏切られたという内容のツイートをした女性が、違う女性に責められていたのです。私はそんな経験はありませんし、そんな女性は周りにいませんよ。あなたがヤバいからそんな女性を引き寄せるんじゃないですか?と。

 

彼氏のマウンティングというのはよくある話ですが、今や女友達と円満かどうかでマウンティングされてしまう時代。こんな空気の中で、芸能人であるだいたが「友達はいらない」とはっきり言ったのは、すごいことと言えるのではないでしょうか。

 

齢50でも、女ともだちとの関係に悩む女たち

しかし、市井を生きる人は、だいたのように「友達はいりません」と言えないようです。

 

女性誌「eclat」が「50歳からの理想的な友達とのつきあい方」として、「いる友だち、いらない友だち」を特集し、大反響があったそうです。なんだかもやもやする友達と距離をおくべきか、そうでないか、どう考えたらいいのかについて解説してあります。

 

なんでもディスらないと気が済まない人、自己中心的な人、正論で推してくる人、マウンティングしてくる人を今後も友達とするのかどうか、ジャッジのポイントについて書いてあります。この特集のベースにあるのは、「友達は欲しいけれど、いやな思いをしてまでつきあいたくもない。かといって、いきなり切り捨てるのもいかがなものか」という気持ちでしょう。

 

友達を特に増やす予定はないと断言するだいた。友達はほしいけど、なんかあの人と会うと疲れるとお悩みの一般人たち。ここで問題なのは「友達がいるかいらないか」ではなく、“動機”ではないかと私は思っています。

 

だいたは、友達がいらない理由を「腹のさぐりあいに興味がない」、「夫と本が一番の友達」としています。つまり、過去に嫌なことがあったけれど、今は夫と本がいてくれたら充足できることに気づいたということでしょう。

 

女たちが女ともだちとの関係に悩むのは、アイツらのせい?

それでは、「友達は欲しいけれど、いやな思いをしてまでつきあいたくもない」派の動機は何でしょう? もし「なんとなく寂しいから」だったら、あんまりよろしくない気がするのです。

 

特集内に「困った人」として出てくるミズ・マウンティングや、正論推しの人の心の中にあるのは「自分を認めてほしい」という寂しさなのではないでしょうか。

 

「すごいよ、がんばったね」と言われたいからマウンティングをするし、日常生活で言いたいことがあるのに、自分の考えが通らないから、友達の前で正論を披露してしまう。さみしさを埋めるために集まり、さみしいから面倒な女化してしまう。仮に「さみしいから」集まったとして、それが楽しいのならいいのです。でも、もし疲労感があるのなら、振り返るべきは自分の心なのではないかと思います。

 

男遊びと友達作りは、自分がノリノリな時がよいと私は思っているのですが、それはさておき、仮に「さみしいから」友達を求めているとしましょう。それでは、なぜ「さみしい」のか。それは、夫がいても楽しい会話ができないからだと思うのです。

 

そもそも日本の夫って、妻の話を聞いてなさすぎないですか?

クロワッサンオンラインで、マインドフルネスのやり方を解説していました。

 

たとえば、「妻がコートを買いたいと夫に相談したら、目も合わさずに、まったく興味がないというふうに『好きにすれば』と言われた」場合、マインドフルネスではどうするかという話なのですが、私に言わせると、マインドフルネス云々の前に「ちゃんと話聞け!夫」なわけです。

 

妻が「コートを買いたい」と言ったら、なぜ「いいね」とか「どういうのが欲しいの?」と聞けないのか。妻が夫をあきらめていないからこそ、「コートを買いたい」と言っているわけで、私ならそんなこと一言も言わないで、とっとと伊勢丹に行って好きなのを買いますよ。

 

日本には男女で一緒にパーティーに行くなどのカップル文化が根付いていませんが、それ以前に「夫が妻を会話でいい気持にする」という考えがまるでないと言えるのではないでしょうか。女性側にはオトコの話を楽しそうに聞けという教えは少女の頃からなされるのに、どうしてオトコに「妻の話をちゃんと聞け」という人はいないのでしょうか。

 

その結果、さみしい妻の中のある人はオトコを求め、ある人は女友達を求めるのだと思うのです。どちらの場合でも、さみしさが一定量を超えると、依存になってしまうでしょう。

 

10月29日放送の「グっとラック!」(TBS系)で、だいたは夫について「今まで出会った中で、一番いい人」と表現していました。こういう人がそばにいて、読書という文字を介して作者と会話する習慣があれば、さみしさは感じずにすむのかもしれません。

 

さみしさは本当に厄介なものです。気を抜くと、こちらの生活を侵食してきます。友達(や恋人)の有無の前に、私たちはさみしさをマネジメントするべきなのかもしれません。