梅宮アンナ初の独白「40年前、私立小で教師にいじめ抜かれた私が、ひとり娘のお受験を決めるまで」#1
モデル・タレント、梅宮アンナさん。20歳でファッションモデルとして芸能界にデビュー。ファッション誌『JJ』の表紙を飾り続け、CMにもひっぱりだこに。30代では活躍の場をTVバラエティ番組にも広げ、まさに老若男女問わずお茶の間の話題をさらい続けてきました。モデルとしてこれだけ全年齢に認知度の高い人は他にはいません。
プライベートでは、時代を象徴する人気モデルでありながら恋愛事情を隠さず、そのつど自分の気持ちをストレートに吐露するスタイルに賛否両論が集まり続けます。28歳で結婚、29歳で長女を出産、そしてシングルマザーに。
そんなアンナさんが47歳のとき、父で俳優の梅宮辰夫氏が死去。偉大なる父とカリスマの娘、親子でお茶の間に愛されたファミリーの「看取り」は世間の耳目を再び集め、最近では「親が亡くなった後の始末」についての壮絶な体験を語る機会を求められることも増えました。
デビューしてから約30年。こうして常に、今の自分の気持ちや状況をオープンに語り、同年代の女性の共感を得てきた梅宮アンナさん。でも、ただひとつ、詳細に語ってこなかったことがあります。
それは「子育て」について。
昨年、ひとり娘の百々果(ももか)さんが無事20歳になったことを区切りに、「話してもいいかな」という気持ちになった、とアンナさんは語り始めます。
お受験体験から不登校の問題、お金の教育や自立して生きる人間にするための教育方針など、アンナさんが文字通り七転八倒しながらも取り組んできた数々の子育てエピソードを、率直にアンナ節で語ってくれました。
娘、百々果が生まれた瞬間、離婚を決めた。「この子を自立できる人間にする!と決意しました」
――まず、アンナさんが29歳で百々香さんを出産した当時のお話から教えてください。ご出産は海外ですね?
アメリカのカリフォルニア州、オレンジカウンティで百々果を出産しました。実は、この地で子どもを産むと10代のときから決めていたんですよ。
あれは18歳、オレンジカウンティにある、姉のような存在の真弓さんの家を訪れたときのことです。目の前に広がるニューポートビーチの素晴らしさに感動して「将来子どもはここで産みたい!」って直感的に思ったんです。10年後に夢をかなえました。
百々果を産んで、すぐに「守るべき存在であり、同志でもある存在がこの世に現れたんだ。ともに手を取り合って戦っていこう!」と思ったんです。そして、すごく不思議なのですが「この子が20歳になったとき、きちんと自立できる子に育てよう」とも瞬時に決意しました。言葉が降りてきたと言ってもいいかもしれません。
私の考える自立した人間とは、ものごとを自分の頭と心で捉え、自分なりの考えを持ち、それを周囲に流されずきちんと伝えられる人であること。さらに経済的にも自分で稼いで食べていけるようになること、です。
——出産してすぐに離婚をされています。いろいろご事情があったのではと思いますが、この決断にはどのような背景が?
離婚も、子どもを産んだ瞬間決めたんです。元夫とは二人きりのときは楽しく過ごしたんですが、妊娠したタイミングから「うん?」と思うことが重なって、徐々に離婚が頭によぎるようになりました。
ただ、両親も含めて周りは大反対だったので、なかなか踏ん切りがつかなかった。でも、百々果を抱いた瞬間、「この子を育てるには、相当な労力とお金が必要になるぞ。だから、余計なものを背負ってる場合じゃない。離婚しないとダメだ」って思ったんです。
それからは、百々果に余計な傷を負わせないよう、父親のいない生活を当たり前だと思えるうちに別れないとならない。これは一刻を争うことだと、決着を急ぎました。私は父親役も兼ねるんだって奮い立っていましたね。
百々果の教育を考えたとき、最初の課題は「精神的自立」。まずはそこからスタートだなと思ったんです。そのためにはどこの幼稚園に入れたら、甘ったれた人間にならないのかと考えて。考えて考えて、私が卒業した「若葉会幼稚園」がいいなと思い、志願しました。
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