まったく役に立たない夫に愛想が尽きるも「すぐに離婚できなかった意外な理由」とは【子宮頸がん日記#5】(前編)

40歳元ファッションスタイリストの子宮頸がん闘病記。子宮頸がんになるまでの経緯や治療法、その時々に思ったことや女性としての生き方などを包み隠さず綴ります。

【連載 子宮頸がん日記#5】前編

里帰りフライトで全く役に立たなかった夫

私たちのフライトはバリからシンガポール経由の日本行き。シンガポールで6時間の乗り継ぎ待ちというフライトでした。私はむしろこの乗り継ぎ待ち時間を懸念していたのです。

シンガポールの空港は、キレイで広くて走り回りたい子どもにとってある意味(?)最適な場所。
案の定、走り周る1歳児とダッシュで追いかける妊婦。

追いかければ追いかけるほど、遊んでると思って逃げる。

そして階段が大好きすぎる息子。上っては降りるを永遠に繰り返します。
夫が抱っこしてやめさせようとするも、絶賛「ママ以外受け付けません期の息子」は、まるで誘拐犯に抱っこされたかのように泣きわめくので、俺の出番はない(ラッキー)とばかりに椅子で爆睡する夫。

 

息子の階段昇降をやめさせる方がしんどい(大暴れで泣き叫ぶ)ので、永遠に息子に付き合う身重の私。産気づいたらどうしよう……と思いつつ、シンガポールで出産したらそれはそれで良い思い出かもと思ったり。(ポジティブ最高!)

 

結局は血の繋がりがある人だけが家族なの!?

「ママ以外受け付けません期の息子」も、「ママと声が似ている叔母さん」はOK。

なんやかんやで日本の空港に到着したら、姉が待ってくれていました。「あぁ助かった」という気持ちで心底ホッとしたのを覚えています。

分娩予約したS病院はどちらかといえば夫の実家のほうが近いのですが、夫としばらく離れたいため、私の実家に一週間ほど滞在する予定になっていました。

 

離れていても姉とは逐一近況報告する仲。助けが必要だと感じ取り、有給を取って空港まで迎えに来てくれたのです。

結局は本当の家族って血の繋がりがある家族だけなんだな、と思ったのです。(のちにこの考えは変わることになりますが……)

 

久しぶりの実家での家族団らん。孫と娘が帰ってきて両親も嬉しそう。

ですが、私は、ストレスによる愚痴が止まりません。
それもそのはず、バリでは1歳児としか話さないので、ここぞとばかりに喋りたいのです。

 

フライト前日、徹夜で麻雀をした夫への怒りも収まらず、「離婚」のワードも飛び出します。ところが……

父:離婚は許さん。結婚は努力と忍耐なんだ。ちょっとのことで離婚なんてぼやくのは、努力と忍耐が足りない証拠だ。
私:でも私、頑張ってるんだけど。
父:頑張ってるなんて軽々しく言うな。頑張ることなんて当たり前で、威張って言うことじゃない!

 

はいはいはい。完全なる団塊世代のご意見に感謝。わが家は父が絶対の決定権を持っています。父が離婚はダメと言ったらダメなのです。

 

そんな真面目で頑固な父は、定年退職直前に肺がんが見つかり、2年間の闘病の末に亡くなりました。
そして、離婚許さん!と言う人がいなくなったので私は離婚しました。パパごめん。

 

お葬式で父への供花を出す際、最後の親孝行と思って、夫婦の名前で出したのを覚えています。

今、アメリカ人と結婚してハーフの孫が誕生していることを伝えたら、父はどんな反応をするのか見たかったです。

ちなみに、母に離婚を伝えた時の反応は、「わぁ!おめでとう!」でした。それもそれで極端。

 

▶▶【後編】「まさかこんなことになるとは……子宮頸がん闘病記の連載を始めたきっかけのひとつ」

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