ある日、帰宅したら娘が冷たくなっていた。そこからの記憶があまりないのですが、気が付いたらもうお骨になっていて
現在67歳の働く女性、長岡まりさん。結婚相談サービス業界で活躍するものの、お嬢さんを自死というつらい形で亡くしたうえ、結婚詐欺で自身の老後資金も失った経験を持ちます。このあまりにもつらい体験を乗り越え、新たにコーチングをスタートしました。
これほどまでのことが起きたとき、私たちならばどう乗り越えるのでしょう。長岡さんの半生を語っていただきました。
前編「結婚詐欺にあい39歳で世を去った娘に伝えたい、私はあなたの母として使命を果たしていくと。67歳が絶望から生還した一部始終」に続く後編です。
コーチングに出会うものの、35歳の娘が抑うつになり、家に閉じこもるようになった
コーチングスクールの友人が、「面白い人がいる」と紹介してくれたのがいまも師と仰ぐ生田知久氏との出会いでした。生田氏が扱っている内容は「自己探求・自己一致・自己統合」という難しいもの。「自己探求」に全く興味がなかったというより「自己探求しても仕方ない」と毛嫌いしていた私が、何故か惹かれて、生田氏の講座に入ることにしたのです。
「きっと私は、生かされた命をどう使うか? その答えを見つけたかったのだと思うのです。そのために、まず、自分を深く知ることが必要だと無意識に感じ取っていたのかもしれません。最初に講座に入ってから7年。今でも学び続けています」
仕事は色々ありながらも順調な毎日でした。しかし一方で、長岡さんが脳出血で倒れた翌年、35歳の娘さんがうつ病に倒れてしまいました。
「娘はとっても努力家。就職氷河期の中、学生時代から目指していた編集者になり、社会人として一歩を踏み出しました。やりたい仕事について忙しいながらも楽しそうにイキイキ仕事をしていました。キャリアアップを目指し、また、結婚しても仕事を続けていくことを考え、新卒で入社した出版社から教育雑誌の会社に転職したところだったのですが……」
教育雑誌の付録の親御さん向けの小冊子を作る仕事を一人で任されていました。しかし、毎月締め切りに終われ、終わりのない仕事に神経をすり減らした結果眠れなくなり、会社の産業医からうつ病と診断。しばらく休むように言われたのでした。
「3ヶ月ほど休職、復職したのですが、残念ながら寛解せず再発してしまいました。娘はフリーランスでも働けると言っていたので、私は退職を勧めました。ですがまだまだ仕事には戻れず、薬を飲みながら家の中に閉じこもる日々。もしかして自宅に帰ったら息をしていないのではないかと毎日が怖かったのを覚えています」
そんな娘が結婚詐欺にあってしまう。その借金の肩代わりで老後資金を失う
うつで家に引きこもっている娘に、銀行から時々届く郵便物に「なんだかおかしい?」と感じた長岡さん。娘さんに問いただすと「休職前に婚活アプリで知り合った男性に、だまされて通常よりも高い金額で中古マンションをローンで買わされていた」と言うのです。
「激務な分だけ収入も高い娘に『税金対策にもなるからマンションを買ったら』と勧め、ローンを組む銀行との手続き等も手伝ったようです。そのマンションには実際の価値の倍の値段をつけてあり、差額をだまし取られたというわけです」
その男は、毎日電話をかけてきて「仕事お疲れ様。大丈夫?」優しい言葉をかけてきたそう。仕事がハードで、ひとり暮らし。誰かに頼りたい、話を聞いて欲しい、できれば結婚したいという気持ちにつけいった手口でした。
「マンションを買った後は、連絡も取れなくなり、娘はやっと詐欺だと気がつきました。けれど、だれにも言えず、ひとりで抱え込んでいたことが、うつを悪化させていました。働けなくなっていた娘にローンは払えないのに、支払いの催促は来るのですから」
このままではストレスでうつが悪化すると考えた長岡さんは、娘さんのローン金額2000万円を肩代わりすることにしました。
「私がそんな大きな金額を払えたのは、会社が上場してストックオプションをもらっていたから。子どもたちに迷惑をかけないための老後資金があっという間になくなりましたが、自分の老後よりいま目の前で苦しんでいる娘が大事なのはきっと誰しも同じでしょう」
ローンのストレスがなくなったことで、娘さんの気持ちは落ち着いていきました。その後、徐々に回復して、フリーで仕事できるまでに元気を取り戻していきました。しかし、ほっとしたのもつかの間、友人達が結婚や出産、仕事のキャリアを着実に積んでいく中、「自分は取り残された」という疎外感・孤独感に苦しむように。
生活の変化で仲のよかった友人たちとの交流が減ったことも影響し、「今まであんなに頑張ってきたのに、なぜ私だけができないの」と自分を責めていきました。
自分を責め、苦しむ娘。薬の過剰摂取で精神科に入院することになったが
「娘は、孤独感の中、眠れない不安から解放されたくて、薬を規定以上に服用するようになっていました。『なにかおかしい?』と気がついた時はもう遅かったのです」
ひとりで家にいる生活では、薬のコントロールは難しい。減薬のため、大学病院の精神科に入院することになりました。入院後は順調で、1ヶ月と比較的短い期間で退院しましたが、帰宅するとまた元に戻ってしまいます。この頃、いつも暗い顔をしている娘さんを見るのがしんどくて、「なぜこんなことになったのか? これからどうなるのか」と不安になり、長岡さんも何もできない自分を責めるようになったそう。
「自分の無力さを呪うとともに、娘を見ていて、仕事だけでなく心や身体、結婚などプライベートもまるごと話し、相談できる相手がいることが欠かせないと痛感しました。とりわけメンタルが不安定に傾いているときは、どんなこともひとりで抱え込まないことが大事。そんな人のための聴き手になろう!と考えるようになったのです」
突如として、私が保育園を作ることに。そこで触れた働くママたちが抱える闇
そんな中、60歳の9月に突然社長から呼び出しを受けました。「社員のための保育園を作ろうと思う。やって!」。もちろん、保育園なんて経験も知識まったくなく、社内にもノウハウはありません。ゼロからの保育園設立です。
「ただ、悪戦苦闘の最中、『待機児童問題解消の為に内閣府が全く新しい制度を始めるらしい』という情報が飛び込んできたのはラッキーでした。その「企業主導型保育園制度」の流れに乗り、偶然ではありますが極めて順調なスタートを切ることができました」
保育事業を任されて10ヶ月後、ようやく企業主導型保育園第一号園を三鷹市三鷹台に開園。駅から3分という好立地の園だったため、入園希望者が殺到して、定員を考えるとお断りしなければならないほどでした。
「入園願書をいただいた中で忘れられない人がいます。30代半ば、大手企業のキャリア女性。入園願書の中に手紙が入っていたため、『何の手紙だろう?』と開封するとこんなことが書いてありました。
『ここに書くことではないのはわかっています。ただ、誰にも話せないので苦しくて、つい書いてしまいました。申し訳ありません。
私は、今まで人一倍頑張ってキャリアを築いてきました。けれど、出産を機にキャリアを降りざるを得ませんでした。なんのために今まで頑張ってきたのか…。この子がいなければ…と思ってしまう自分がいます。こんな気持ちでこの子を愛して育てていけるのか…不安です』」
読みながら、誰にも打ち明けられずひとりで抱え込んで苦しんできた彼女の気持を思い、涙が止まらなかったと長岡さん。
「今、話題の本に通ずるものがあると感じていますし、母親たちの気持ちを理解し、共感し、寄り添う場や相手が必要だと改めて思っています」
母親になったことを後悔していると述べる女性を誰も非難することはできません。きっと誰しも一度は感じたことがあるはず。子どもは可愛いけれど、「母」という名の下に全ての責任を負い、自分の時間が全くない生活が息苦しいと思う女性は多いのではないでしょうか。そして「自分には母性が足りないのでは…」と自分を責めてしまうのです。
社員のための保育園から、保育園そのものを事業化する流れに
「企業主導型保育園制度」によって保育園を作りやすくなったことで、長岡さんの会社は社員のための保育園作りから保育園の事業化へと舵を切りました。同時に都内に保育園を9園作ると言うハードな仕事に変わり、社員の為の保育園を作ると思って仕事をしてきた長岡さんは迷うようになっていました。
「『このまま、この仕事を続けるの?これがやりたいこと?』ともやもやするようになったのです。けれど『責任があるから簡単に辞められない』とも思い、悩んでいました。そんな悩みの中にいるときにある人に『まりさんは辞めたがっているのに、なぜしがみつくの? 空中ブランコは先に手を離さないと次に飛び移れないよ』と言われて」
その時、長岡さんは「辞めたいなんて思っていない。何を言っているの?」と反発しました。自分の本当の気持ちに気がついていなかったと振り返ります。
ところが2018年3月。社長から話があると呼ばれた長岡さんは「保育事業を全部他社へ譲渡する。これは決定事項だから」と告げられました。
「けれど、どこかでそれを望んでいた自分もいたのです。怒りは湧いてこず『そうきたか!』と人ごとのように受け取っている私がいました。そして、もう充分やりきった。やり残したことはないと退職を決意しました。63歳でした」
会社が大好きで、仕事が大好きで、仲間が大好き、70歳までも働き続けると公言していた長岡さん。会社の誰もがそう思っていた彼女が定年を待たずに会社を辞めるとは、会社で大きな驚きを持って受け取られました。
理想の住まいを探す日々。でもある日、仕事から帰ったら、娘が冷たくなっていた
60歳になった頃から仕事を辞めた後の住まいについて考えるようになりました。住んでいた賃貸マンションは快適だけれど、隣に誰が住んでいるかわからない。挨拶もしない。そんな閉鎖的な空間で、仕事を辞め、ひとりぽつんと暮す自分の姿を想像するとぞっとしました。
「もっと自然のあるところ、海と山がある街。こじんまりして人との交流がある街に住みたい。休みを利用して、『老後の住まい』を求めて旅をかねて色々な街を訪ね歩くようになりました。そこで決めたのが逗子。理想的な家も見つかり、契約を済ませました。6月半ばに引っ越すことに決めました」
仕事の譲渡終了期限は6月末、あとは粛々と業務を進めるばかりでした。6月半ばの引っ越しの前後、一週間なんとか有給も取れ、引っ越しが終わった後は逗子から会社に通うことに。何もが予定通り、順調な筈でした。
「ですが、6月3日のことです。いつも通り、朝『いってきます!』と娘にLINEをすると『いってらっしゃ~い!』と返信が返ってきました。仕事をしてスーパーに寄って夕飯の食材を買って『ただいま!』と家のドアを開けるとトイレの前に娘が倒れていたのです。既に冷たくなっていました」
何が起こったのか? 理解できず。混乱した頭で「とにかく救急車を呼ばなくちゃ!」と救急車を呼びました。どうやって呼んだのか、覚えていないと長岡さんは言います。この時のことは、ほとんど記憶にないのだそう。
駆けつけた救急車の方は、心臓マッサージをしてくれました。そして、あきらかに亡くなっている娘を前に「大変申し上げにくいのですが、亡くなっている方を救急車で運ぶことはできないのです。誰もいないところで亡くなっているので、事件性はないと思うのですが、事故扱いになり、警察を呼びますがよろしいですか?」と告げられました。
「何を言っているの? 既に亡くなっている? 救急車で運べない? そんな言葉がグルグル回りました。これはだめだと、息子に電話をしました」
すぐに飛んできてくれた息子さんが警察との対応や葬儀社との打ち合わせなど、その後のすべての対応をしてくれました。長岡さんはこの時のことをほとんど覚えていません。
「3日後、気がついた時、娘はお骨になっていました。1ヶ月後にわかった死因は向精神薬の中毒でした」
そんな中で、引っ越しをしなければなりません。一週間の忌引きの後、そのまま予定通り有給を取り、喪失感の中で引っ越し。ですが、どうやって引っ越しをしたのか? こちらも思い出せません。
「いつの間にか逗子に引っ越ししていて、ダンボールの山の中にぽつんと座っていました。今思い返すと、引っ越しというやることがあったから、私の心は壊れずにすんだのだと思うのです。もし、あの時、時間がたっぷりあって、考えていたら、きっと壊れていたでしょう」
有給が終わって逗子から会社に通う日々が始まりました。とにかく、期限内に譲渡を済ませなければ、やることは無限にあるように思えました。ひとつひとつやるしかない。そんな2週間でした。そして、ついに6月30日に譲渡が完了。
「もう明日から会社にいかなくていい。極限の疲れと妙なハイな精神状態にいたのを思い出します。忙し過ぎて送別会も辞退し、会社の会議室で軽食を食べながら送別会代わりの夕食をとったんです」
このままではダメになる。再び自分と向き合うタイミングがきた
ひとりでいても涙は全くでません。泣くと止められなくなるのがわかっているので、泣くのが怖い。感情を押し殺して淡々と生活する、そんな生活だったそう。
そんな生活に疲れた長岡さんは、8月の最後に8泊9日での生田氏の講座の山形庄内合宿へ参加を決めました。「スイデンテラス」という田んぼの中にある世界的建築家の坂茂氏デザインの素敵なホテルでした。その合宿の期間、1日8時間近く自分とトコトン向き合う時間を持ったことが次の転機となります。
「これからどう生きていくのか、生田氏のセッションを受け、自分でも深く内面と向き合い続けました。そうして出てきた答えが『マザー:母(全てを受容する存在)として生きる』。衝撃的でした。母? 娘を亡くした私が母として生きる? そんなこと、到底受入れられるわけがない」
反発し続けた長岡さんですが、落ち着いて考えると現実の母と言う役目を失ったからこそ、全てを受入れられるのではないか?と思える瞬間がありました。
分け隔て無く受容できる存在、マザー。そう考えると「母なる存在、マザーとして生きる」はしっくりくるどころか、徐々にそれしかないとまで思えるように変容したそうです。娘さんが与えてくれた「マザー、母という役割」、これはギフトなのだと思えたのです。
自分とトコトン向き合う時間を提供していきたい。それが私のミッションです
こうして得た自分の役割。これは、自分とトコトン向き合う時間から辿り着いたもの。誰かにアドバイスされた訳ではなく自分自身でトコトン自分と向き合う中でたどり着いたもの。だからこそ、しっくり腹落ちして、ぶれずに前に進めるのだと思うと長岡さんは言います。
「この経験が、今、私が提供している、自分とトコトン向き合う時間を支援する『トコトン・ダイアログ』1on1対話セッションサービスに繋がっています。2019年、私の65歳の誕生日に株式会社イトグチを立ち上げました」
長岡さんが考える使命は「40代後輩女性たちの支援」。なぜ40代か?言うまでもなく今までの経験から人生で40代が一番しんどいから。だからこそ悩みをひとりで抱え込まないよう、少しでもお手伝いをしたいのだそう。
そして、今生きていれば44歳になる娘さんからのギフトだからです。
「話せる相手は、誰でもよい訳ではないと思っています。人生の本質的なテーマを話せる相手は、本当に信頼できる相手に限られるからです。この人なら信頼できる、この人なら安心して話せる、そういう存在であれるよう学び続けてきましたし、今も学び続けています」
今は、娘を亡くした私だからこそ、母の役割を失ったからこそ、全てを受容できる母なる存在として生きられると思っています。長岡さんはそう話を結びました。
前編▶『結婚詐欺にあい39歳で世を去った娘に伝えたい、私はあなたの母として使命を果たしていくと。67歳が絶望から生還した一部始終』
長岡まり
40代からのライフデザインプロデューサー・メタマー。(株)イトグチ 代表取締役。鹿児島県出身、1955年生まれの67歳。立教大学法学部卒。現在は息子さんのご家族4人と神奈川県逗子市で同居中。
トコトンダイアログ公式サイト https://itoguchi.hp.peraichi.com
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